岐阜芸妓検番のご案内

沿革

昭和59年 8月 1日 岐阜芸妓組合設立
平成 3年 9月 1日 岐阜芸妓振興会設立
平成 4年 3月 6日 「岐阜芸妓振興会発表会」開催
平成 5年 9月17日 第2回「岐阜をどり」開催
平成 7年 9月30日 第3回「岐阜をどり」開催
平成 8年 9月 6日 第17回「紅緑曾」公演 文部大臣奨励賞受賞
平成10年 6月 6日 第4回「岐阜をどり」開催
平成12年10月14日 第5回「岐阜をどり」開催
平成15年 1月 5日 第6回「岐阜をどり」開催
平成16年 3月21日 岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成17年11月13日 岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成18年10月29日 岐阜芸妓をどりを愉しむ集い 
平成19年12月 1日 手古舞衣装お披露目
平成20年 4月 5日 道三まつりにて「手古舞」を披露
平成20年11月 22日 岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成21年11月28日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成22年11月27日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成23年11月5日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成24年11月24日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成24年11月30日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成26年11月15日
岐阜芸妓をどりを愉しむ集い
平成27年2月25日
公益財団法人岐阜観光コンベンション協会より平成26年度功労団体として表彰を受ける
平成27年11月7日
【予定】岐阜芸妓をどりを愉しむ集い

 

花街の沿革

岐阜と言えば金華山と長良川・・・
金華山には岐阜城・・・
戦国時代には斎藤道三の居城で特に岐阜城の名を天下に示したのはテレビの大河ドラマにも何度となく出ている織田信長・・・
この信長により「岐阜」の地名がつけられました。
標高329メートルの高さにあり望楼からは東に恵那山、木曽御岳、北に乗鞍、日本アルプスが連なり、西に伊吹、養老、鈴鹿、南に濃尾平野、木曽川が伊勢湾に流れるのが一望できます。
又、眼下には清流長良川が市内を貫流しています。
夏は千三百年の歴史を持つ鵜飼が毎年五月十一日より十月十五日まで行われ、赤々と燃えるかがり火はさながら絵巻物を解いている様です。
このような恵まれた土地で花柳街は発展してまいりましたが、時代の流れと共に芸者の人数も落ち込み先行きが危ぶまれましたが、政財界、料理業界の方々の肝入により平成三年に岐阜芸妓振興会を発足していただき、二年に一度日頃の芸の研鑽の成果を「岐阜をどり」として披露させていただいております。
そして、平成十五年一月五日(日)長良川国際会議場に於いて第六回「岐阜をどり」を開催する運びとなりました。
岐阜の伝統芸能と心情を次代へ引き継ぎ、地域文化の発展のため組合員一同心を一つにして一層の努力を重ねて参りたいと思います。

 

 

祝儀の切符制

 戦前の岐阜花街の一端については、昭和5年に発行された『全国花街めぐり』に記述されています(この他、昭和11年に『岐阜花街案内』という書物が岐阜花街案内社より発行されているようですが、入手できていません)。
 それによると、当時の花街は「上の芸者」「中の芸者」「下の芸者」の三つに分かれていました(と言っても、「下の芸者」は金津遊郭内の芸妓のことですので、ここでは割愛します)。上というのは、主として伊奈波町(今日の米屋町)、中というのは、今の見番がある高岩町から住吉町、弥八町、若宮町の一帯に居る芸妓衆のことを指していたようで、昭和5年以前には、見番も岐阜見番と正栄連見番とに分裂して相反目していたようですが、この頃には旧岐阜見番を第一組合、旧正栄連を第二組合とし、これに料理待合組合を加えて三業組合を組織していました。
 この時の花街の勢力は、芸妓置屋158軒、芸妓528名、料理屋127軒、待合87軒であると書かれています。528名の芸妓のなかで最も有名であったのは松岡家のおれいという姐さんで「岐阜花街のクイン」と呼ばれていたようです。そのおれい姐さんが引退した以降については「500有京の芸妓を一手に統率してゆく程腕の冴えたのは居ないが、松月のおゑん、若ぽんたのかづ子等は宴会には無くてはならない芸妓となっている。但し、名古屋美人系に属する地方だから、若くて美しい妓ならば幾らでも居る」と、この頃の芸妓事情が書かれています。
 一方、出先である料亭に関しては、主な店として萬松館・濃陽館・水琴亭・鐘秀館・十八楼などの名があがっています。このうち、萬松館・水琴亭・十八楼は今日でも営業しています。なお、岐阜市は割烹旅館という旅館兼業の料理店が中心でありました。また、岐阜花街での祝儀の特徴として、「客の指定に依って料理屋・待合から切符で渡すのは変わっていて一寸おもしろい」と書かれていますが、これは見番の方で、赤・青・白の三種類の切符をつくり、これをお客の指定によってお店から芸妓に渡すというシステムのようです。ちなみに当時赤は50銭、青は1円、白は2円ということでした。



振興会で若い芸妓が誕生

 戦後、岐阜花街の再開は比較的早かったようですが、正確な年代は定かではありません。しかし、昭和30年代後半には、前述したような立派な自前の見番を建設しています。戦後の最盛期には芸妓も300名以上に盛り返しています。とは言え、この数字は岐阜芸妓組合所属以外の芸妓も含めたものです。戦前に統一された岐阜見番ではありますが、昭和30年代には再び三つ位の見番に分かれてしまいました。しかし、これは岐阜芸妓組合(華陽見番とよばれていた)の分裂ではなく、これとは別に新たにつくられた見番で、それらは正栄見番、金華見番と言われるものでした。
 岐阜芸妓組合の方は、昭和40年に150名位在籍者があり、この時がピークで、以降は減少に転じています。昭和59年、この年は自前の見番事務所を失った年ですが、この時に芸妓50名位、芸妓屋30軒位となっていました。この頃より、芸妓衆のなかから将来を懸念する声が出始め、知事や商工会議所に支援策を相談するようになります。昭和57年には金沢市で伝統芸能振興協同組合が設立され、昭和63年には新潟の古町で「振袖さん」制度が発足し、さらには平成元年に名古屋でも伝統芸能振興会が設立されるというなかで、これらの制度を研究して陳情した結果、平成3年に商工会議所を中心に岐阜芸妓振興会が発足することになりました。この時、芸妓は29名にまで減っていましたが、これによって若い芸妓の養成が可能になり、今日の34名にまで増加してきたわけです。
 こうして岐阜花街の灯は再び点り始め、昭和40年代で途絶えていた「岐阜おどり」も復活するとともに、平成8年には全国の芸妓衆の芸能公演である「第17回紅緑会」にも出演を果たし、文部大臣奨励賞を受賞しています。現在34名のうち、20才代が3名、30才代が4名と、他の花街と比べても若い芸妓の比率も高いので、岐阜花街の今後の展望は明るいものと思われます。



料理店も協力

 しかし、花街が本当に活性化していくためには、振興会の助成制度と同時に、料理店等での芸妓衆を招いてのお座敷が増えていくことが重要であります。岐阜の場合、これまでは旅館の方に比較的芸妓が多く入っていたのですが、ここにきて料理店の方でも若い人に料理店でのお座敷の良さを知ってもらうべく、「お座敷会」を発足させようとしており、こうした試みが成功していけば、料理店の活性化と芸妓の振興とがともに実現し、花街の発展に繋がっていくものと思われます。



岐阜芸妓検番概要

所在地 〒500-8107
岐阜市高岩町23番地 (上田ビル2F)
電話 058-262-4167
FAX 058-262-4167
代表者名 大田 可奈子
業種 芸妓
従業員数 20名 
設立年月 昭和59年 8月 1日